中国の歴史を深掘りしたい人にオススメのマンガ

寺島優李志清マンガ三国志全14巻画像
寺島優李志清マンガ三国志全14巻画像

どうも!babytoyです。

今回は世界史の中でも中国史を詳しく知りたい、中国の歴史を深掘りしたいと考えている人に向いているマンガをご紹介します。

その名も『三国志』!!

中国の歴史の中でもかなり限定されてしまいますが、広く浅くではなく、狭く深く中国の三国時代を学ぶには最適のマンガだと思います。

三国志のマンガにはいろいろあって、横山光揮氏の三国志や、学研のマンガ三国志など、どれにしようかと迷いましたが、俺は原作:寺島優、作画:李志清の三国志を選びました。

今回はそのマンガ三国志の簡単なあらすじをご紹介していきます。

↓amazonのkindle本へのリンクです。

三国志 1 (MFコミックス フラッパーシリーズ)
三国志 2 (MFコミックス フラッパーシリーズ)
三国志 3 (MFコミックス フラッパーシリーズ)
三国志 4 (MFコミックス フラッパーシリーズ)
三国志 5 (MFコミックス フラッパーシリーズ)
三国志 6 (MFコミックス フラッパーシリーズ)
三国志 7 (MFコミックス フラッパーシリーズ)
三国志 8 (MFコミックス フラッパーシリーズ)
三国志 9 (MFコミックス フラッパーシリーズ)
三国志 10 (MFコミックス フラッパーシリーズ)
三国志 11 (MFコミックス フラッパーシリーズ)
三国志 12 (MFコミックス フラッパーシリーズ)
三国志 13 (MFコミックス フラッパーシリーズ)
三国志 14 (MFコミックス フラッパーシリーズ)

※この記事のトップ画像の本は背表紙しか見えませんが、リンク先の商品画像とは表紙と本の大きさが異なります。版が違うことによるものです。俺が持っている三国志の本は初版で古いやつなので大きいサイズです。

※この三国志のマンガには首をはねるといった残虐な描写が多くあります。

三国志 第一巻 桃園の誓い

「生まれた日は違えども、死す時は同じ日、同じ時!」宦官の腐敗政治や黄巾賊の乱で衰退する漢王朝、民衆の苦しみを憂いて、劉備・関羽・張飛の三人は義兄弟の契りを結び奮起する!

黄巾の乱…「未だかつて身治まりて国乱るる者を聞かざるなり。また未だかつて身乱れて国治まる者を聞かざるなり」草鞋売りの劉備玄徳(りゅうびげんとく)が子供たちに教えを説くここ楼桑村にも黄巾賊がやってきた。絶体絶命の劉備。そこに猪肉売りの張飛翼徳(ちょうひよくとく)があらわれる。恐ろしい呪術を使うという黄巾賊の大将である張角(ちょうかく)は民衆が苦しむことのない平和な世の中の実現を目指して武装蜂起したのだが…。漢王朝の血をひく劉備は張飛とその兄貴分の関羽雲長(かんううんちょう)とともに黄巾賊討伐のために立ち上がる!

桃園の誓い…劉備、関羽、張飛の三人は義兄弟の契りを結ぶ。劉備の人徳を慕って人々が劉備の義軍に参加、このとき劉備玄徳二十三歳義軍総勢五百余名。長く苦しい遠征の始まりであった。

初陣…大興山(たいこうざん)に結集した黄巾賊を倒すために出陣する劉備。また青洲城が黄巾賊によって落城寸前との報を受けてそちらに向かう。

黄巾賊滅亡…大興山そして青洲の敗北をきっかけに黄巾賊の勢いは急速に衰え始めた。董卓(とうたく)将軍に激怒する張飛。そして黄巾賊の地公将軍張宝(ちょうほう)を討伐する劉備。人公将軍張梁(ちょうりょう)の前に立ちはだかる官軍の将、曹操孟徳(そうそうもうとく)。

劉備の決心…霊帝は腹心の部下(十常侍)の進言に従って将軍たちに勲功を与えたが、劉備ら義軍には何の沙汰もなかった。盧植(ろしょく)将軍の参謀である張鈞(ちょうきん)の働きにより劉備は中山府安喜県の県尉に任命される。ある時、都から帝の勅使としての督郵(とくゆう:監察官)が安喜県にやってきて…。

謀略・何進大将軍…劉備は平原県の県令(知事)に推挙され当面は落ち着き先を得るのだが、この頃、洛陽の都では漢王朝を揺るがす新たな嵐が吹き荒れようとしていた。

辺境の暴獣・董卓…西涼の刺史董卓は黄巾の乱の際、討伐軍司令官に抜擢されたが戦果なく、罪に問われるところを十常侍に賄賂を贈って免れたという、いわくつきの人物であった。

三国志 第二巻 両雄の出会い

高貴な血を引きながら草鞋売りに身をやつしていた劉備。宦官の孫として蔑まされてきた曹操。黄巾賊平定で名を上げた二人が初めて相対したのは洛陽の都に迫る董卓討伐の軍勢の中だった。

乱世の奸雄…曹操は漢王朝時代の帝に仕えた宦官の巨頭曹騰(そうとう)が夏候(かこう)家から迎えた養子曹嵩(そうすう)の子としてこの世に生まれた。二十歳のとき曹操は孝廉(官吏候補生)に推挙され中央政府の郎官となった。洛陽の北都尉(北部警察署長)に任ぜられると宦官の権力に臆することなく高官といえど禁を犯した者は容赦なくこれを取り締まった。

両雄の出会い…初平元年(190年)正月。首都洛陽の東の要塞汜水関(しすいかん)を臨む荒野に反董卓連合軍が結集した!総兵力およそ四十万!荒野に連ねた陣は三百里余(約二百km)におよんだという。反董卓連合軍を迎え撃つべく華雄(かゆう)将軍はただちに洛陽を出発、その日のうちに汜水関に入った。

虎牢関(ころうかん)の戦い…董卓は二十万の大軍を率いて洛陽を出発。自らは十五万の平を率いて汜水関の西に位置するもうひとつの要塞虎牢関に入った。さらに董卓はその内の三万の軍を呂布(りょふ)に与え、関の前方に陣をとらせて万全の態勢を整えた。

見せかけの結束…後漢二百年の栄華を誇った首都洛陽の炎上を目の前にして誰もが沈黙のままたたずむのみであった。盟主袁紹(えんしょう)の下、諸侯たちは集まって今後の作戦を協議した。しかし誰もがこの期におよんでなお董卓の威勢を恐れ消極的な発言を繰り返すばかりであった。

磐河(ばんが)の攻防…ある日袁紹軍の窮乏を知った冀州の韓馥(かんふく)が軍用にあてるようにと親切にも食糧を送ってよこした。しかし韓馥は後日この好意を仇で返されることになるのである。袁紹は策謀を練り上げ二通の手紙をしたためた…。

王佐の才なり…荀彧(じゅんいく)、二十七歳の若さで孝廉(官吏候補生)に推挙され王佐の才なり(王者の補佐役の才能の持ち主)と評された希代の秀才を、関羽は迎えに行くのだが、その姿はなかった。荀彧は故郷が董卓軍に襲撃される直前に冀州の袁紹の下に逃げていたのである。

三国志 第三巻 連環の計

足並み揃わず崩壊する反董卓諸侯連合軍。「脇に呂布が居る限り奴は討てない!」長安を都とし暴虐と淫蕩の限りを尽くす董卓を討つべく高官王允(おういん)が仕掛けた奇策「連環の計」とは…。

連環の計…董卓の暴虐ぶりは相変わらずで、宴会を開いていたところ捕虜を煮え立つ大鍋の中へ放り込んだ。泣き叫ぶ声は天にこだまし宴会に出席していた百官たちは震えおののいたという。王允は絶世の美女貂蝉(ちょうせん)に連環の計を託す。

暴獣・董卓の最期…貂蝉を手に入れてからというもの董卓は彼女にうつつを抜かし政務を見ようともしなかった。呂布は貂蝉を董卓から奪い返そうとするが…。

乱世の再来…董軍の残党李傕(りかく)らが西涼で兵を集めて長安に攻め込んできたのである。李傕らは権力を握ると朝政をわがものとして酒色に浸り、人民を虐げて逆らう者は容赦なく処刑した。滅亡したはずの黄巾賊が息を吹き返し、世はまさに無秩序状態!群雄割拠する戦国の時代を迎えようとしていた。

兗州(えんしゅう)争奪…初平四年(193年)父親である曹嵩を殺された曹操は百万の大軍を率いて徐州に攻め込んだ。復讐に燃える曹操の軍勢を前に徐州の太守陶謙(とうけん)は援軍を待って城に立て籠もるほかになす術もなく徐州は落城寸前であった。

徐州の太守…義軍を起こし故郷幽州を出てから十年、諸侯が領土を争って戦う中、劉備は無欲ゆえに一国の主となったのである。劉備に徐州が譲られたという報はただちに曹操に届けられ…。

天子奉戴…長安の都では李傕と郭汜(かくし)が権力を欲しいままにし悪政の限りをつくしていたが、楊彪(ようひょう)の策により仲違いした二人は激突、自陣に帝を擁して大義を得ようとする李傕と郭汜の間でわずか十三歳の若き献帝は翻弄され苦難の道が始まろうとしていた。

徐州陥落…打ち続く戦乱で土地は荒廃しイナゴの大発生などによる大飢饉も重なって人々は慢性的な飢餓に襲われていた。流れ者はあとを絶たず人肉食む極限的な地獄がそこかしこで展開されていた。南陽の袁術を討てとの勅命が劉備のもとに届けられ…。

三国志 第四巻 淮南(わいなん)の勝利

呂布の裏切りにより徐州を奪われ流浪の身となる劉備。しかし勢力を増し皇帝を僭称する袁術に対抗するため呂布は劉備を呼び戻し劉備・曹操・呂布・孫策が手を結ぶ。決戦の場は淮南だ!

小覇王孫策…孫策と周瑜(しゅうゆ)は幼なじみで同い歳の親友であった。孫策の父孫堅が黄巾の乱平定のために出兵した際、家族を舒県(じょけん)に疎開させたのであるが、そこが周瑜の故郷であった。孫策と周瑜は断金の交わりを結び孫策の母は周瑜をわが子のように可愛がったという。

江東平定…太史慈(たいしじ)を仲間にした孫策は軍兵による強盗略奪の一切を禁止して善政を施いた。人々は喜び牛や酒を届けて孫策たちの労をねぎらったという。借りもので始まったわずか三千の軍勢はこの頃には数万の大軍にふくれあがっていた。

呂布との訣別…呂布に攻められ許都(きょと)の曹操の所へ落ちのびた劉備。曹操は劉備らを丁重に迎えてもてなした。小沛(しょうはい)の戦いで離散した劉備の部下たちが駆けつける。敗れてもなお慕われるその人望が劉備の強さであった。

袁術の野望…袁術は天地の神を祭り自ら皇帝を名乗り年号を仲氏と定めて朝廷の諸官を設けた。袁術の大軍は二十万!七軍に分かれた征伐隊はいく先々で略奪を繰り返しながら破竹の勢いで徐州へ迫った。

淮南の勝利…建安二年(197年)九月。曹操、劉備、呂布ら総勢三十万の大軍が皇帝を僭称する袁術を討つべく淮南へ向かって兵を進めていた。劉備の軍勢は右翼を、呂布の軍勢は左翼を、曹操自らは中軍となって淮南へ攻め込んだ!

小沛陥落…曹操は劉備のもとへ使者を送り呂布を討つ手はずを整えるよう伝えた。ところが曹操への劉備の返書が奪われ計画が露見。呂布が小沛へ攻め込む!

暗躍陳父子…陳登(ちんとう)は言葉巧みに呂布に進言する。自ら立てた計略が着々と進んでいく…。陳登は胸の高鳴りをおさえることができなかった。

三国志 第五巻 呂布の最期

丁原(ていげん)から董卓に寝返り、その董卓をも手にかけた“主殺し”の奸物呂布に最期の時が!かつて助けられた劉備を裏切り奪い取った徐州に、曹操・劉備の軍が迫る!

呂布の最期…夜明けから始まった曹操軍の攻撃は間断なく続き、いつしか地平線に夕陽が落ちていこうとしていた。呂布は早朝からの戦いで疲れ切っていた。いすに座るとたちまち深い眠りに落ちた…。

籠の鳥…曹操は徐州を自らの領土とすべく策謀をめぐらした。劉備たちを従えて意気揚々と許都に凱旋した。しかし献帝との謁見は曹操の思惑を超えた思いがけない結果をもたらすことになる。

徐州奪還…袁術は自ら皇帝を名乗った後、ぜいたく三昧の酒池肉林の生活に溺れ、一方それを維持するために重税を課せられた人民たちの生活は苦しくなるばかりであった。耐え切れなくなった人々は袁術の領土から次々と逃げ出していった。こうなっては袁術の勢いは衰えるばかりで、切羽詰まった袁術は最後の手段として従兄の袁紹に助けを求める。

陰謀発覚…袁紹が諸州に出した檄文によると、曹操の祖父曹騰は人民を虐げ悪行の限りをつくした宦官であり、父曹嵩はその養子となり賄賂で官位を得て漢王室を傾けさせた腐敗の輩である。古今の書物をひも解いても、かかる血筋を引き継いだ曹操ほど狡猾で残虐非道の臣は見当たらない。今こそ曹操を打ち倒し天子を救うべく立ち上がらん!

劉備対曹操…曹操は二十万の大軍を率いて劉備討伐に出陣した。遠路はるばる徐州まで遠征してきた曹操軍に劉備は夜討ちを仕掛けるが…。

忠義の士・関羽…曹操は下った関羽の関心をひこうと計画を練った。まず最初に帝に謁見させたのである。かねてより関羽の武勇の数々を耳にしていた帝は大いに喜び、曹操の進言によって関羽に偏将軍の位を授けた。

許都脱出…謹謝訪客叩門。回避牌(ことわりふだ)とは訪問客を断る時に門にかけておく札のことである。この札がかかっている時はどのような大事な用があろうとも黙って帰るのが当時の礼儀とされていた。曹操は暇乞いにくるであろう関羽の礼儀正しさを見抜いていてそれを逆手に取ったのである。

三国志 第六巻 三顧の礼

袁紹に身を寄せる劉備の元に曹操の客分となっていた関羽がはせ参じ、張飛、趙雲も集う。天下取りに向け再起する劉備は優秀な軍師の必要を諭される。世に知られていない英才たち“伏竜と鳳雛”とはいずこに?

千里独行…関羽は洛陽の韓福(かんふく)と孟担(もうたん)、沂水関(ぎすいかん)の卞喜(べんき)、螢陽(けいよう)の王植(おうしょく)そして秦琪(しんき)と黄河を渡るまでに東嶺関(とうれいかん)の孔秀(こうしゅう)を含めて関所五カ所を打ち破り大将六人を叩き斬った。いく先々で迫害されだまされて殺されそうになったりしたためのやむをえぬ関所破りであった。

官渡の戦い…二十六歳の若さで永遠の眠りに落ちた孫策の弟である孫権は十八歳にして呉の新国王となった。曹操を攻め落とすべく袁紹が支配する冀・青・幽・并の四州の軍勢七十余万の大軍が許都へ向かった。袁紹が楊武に陣を張ると曹操はその南の官渡に兵を集結させた。

蔡姉弟の陰謀…建安十二年(207年)甘夫人が劉備の子を産んだ。甘夫人が北斗をのみ込んだ夢を見た時に身籠ったので、その子を阿斗(あと:のちに劉禅)と名づけた。しかし劉備の平穏な時代は長くは続かなかった。荊州に跡継ぎ争いが持ち上がってきたのである。

名軍師単福(ぜんふく)…天地反覆りて火は殂(ほろ)びんと欲す。大廈(たいか)の将(まさ)に崩れんとするや一木にては扶(ささ)え難し。山野に賢ありて明主に投ぜんと欲す。明主は賢を求むれど却って吾を知らず。

偽りの手紙…曹操は部下の程昱(ていいく)の進言を聞き入れ徐庶(じょしょ:単福)の母親を屋敷に住まわせて軟禁状態にした。程昱は毎日のように珍しい食べ物や衣服を徐庶の母親の元に届けさせた。義理堅い母親はその度に程昱に礼状をしたためた。しかしそれは程昱が仕掛けた巧妙な罠であった。

三顧の礼…蒼天車の傘の如く陸地は棋局に似たり。世人には黒白の分ありて行きかって栄辱を争えり。栄える者は自ずから安らかに敗れる者は碌々たらん。南陽に隠者あり。高眠して臥せどもなお足かず。

三国志 第七巻 孔明の初陣

劉備自らが三顧の礼を尽くして迎え入れた軍師、諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)。しかし関羽・張飛ら歴戦の将たちはこの新軍師の実力に懐疑の念を抱く。押し寄せてくる曹操の将、夏候惇(かこうとん)の軍勢十万に対し孔明はどう采配する?

対立…曹操は北中国一帯を制覇すると三公(司徒・司公・大尉の大臣級の朝廷の重職)を廃して自ら丞相(じょうしょう)に就任。天下統一へ着々と歩を進めていた。一方劉備は漢王室の復興を遂げるには優秀な参謀が必要であることを痛感。諸葛亮孔明という強力な軍師を得た劉備は決意をあらたに天下統一の夢に向かって歩み出すのであった…。

孔明の初陣…博望坡(はくぼうは)は左に豫山(よざん)という山があり右に安林という林があって軍勢を潜ませるには絶好の地。関羽は一千騎の軍勢を率いて豫山に隠れ敵軍の通過を待って後陣を叩き兵糧を奪って火を放つ。張飛は一千騎の軍勢を率いて安林に潜み火の手が上がったところで打って出て敵の中陣を叩き博望城を焼き払う。関平(かんぺい)と劉封(りゅうほう)は五百の兵を率いて博望坡の後方両面から攻め込んで火を放つ。趙雲は先鋒として正面から斬り込みわざと負けて引き下がって敵を深く誘い込む。

新野放棄…曹操は総勢五十万の大軍を率いて劉備と呉の孫権を討つべく南方攻略へ向かった。建安十三年(208年)秋七月丙午(ひのえうま)の吉日のことであった。

子龍の奮戦…怒り狂った曹操は徐庶を使者に立てて劉備に降伏を迫った。しかし劉備がこれを拒否したため三度目の劉備討伐を決意して出兵させたのであった。その頃劉備ら軍人領民合わせて十余万の一行は樊城(はんじょう)を出て荊州の要所江陵(こうりょう)を目指して進んでいた。

孔明の深謀…曹操は劉備を江夏へ退けると江東の孫権を降伏させて天下を統一すべく軍を起こした。長江に結集した軍勢は水陸合わせておよそ八十五万!曹操はこれを百万の大軍と称して呉を威嚇したのである。

孔明対周瑜…漳水(しょうすい)の長流臨みて園果の滋り栄ゆるを望む。双台を左右に列す玉竜と金鳳とあり。二喬(喬姉妹)を東南にとり朝夕これとともにあることを楽しむ。皇都の宏麗なるを…

十万本の矢…孔明を亡き者にしようと企む周瑜は十万本の矢を十日で用意するよう孔明に言い出すが、孔明は三日で用意するという。三日目の霧の深い夜、孔明は魯粛に頼んで船二十艇を用意してもらい、何百体というワラ人形を積み込んで出陣した…。

三国志 第八巻 赤壁の戦い

呉に侵攻する曹操の大船団八十万!孔明の火攻めは成功するのか!?今、歴史に名高い赤壁の戦いが火蓋を切った!そして孔明を恐れた呉の周瑜は戦乱の中、ひそかに暗殺を謀る!

孔明風を呼ぶ…周瑜は屈強の兵士五百人を動員して南屏山に七星壇を築かせた。孔明は風が吹き始めたらただちに出陣するようにと魯粛に言いおいて七星壇に上がった。

関羽の誓い…曹操を相手にした大合戦を前にして孔明は関羽にだけは指示を与えなかった。それは関羽が昔曹操から恩義を受けたことがあり、情にほだされて曹操を見逃すような関羽の義理堅い性格を見抜いてのことであった。

赤壁の戦い…黄蓋(こうがい)が火を放った枯れ木や枯れ草を積み込んだ船は、吹きつける東南の追い風を受けて曹軍に向かって突っ込んで行った。燃え上がる火は風を受けて勢いを増し曹操の軍船を呑み込んだ。

完全なる敗北…夜を徹して落ちのびてきた曹操たちにとって十一月の雨は骨の髄まで凍りつくほどに冷たく全員が疲労の極致に達していた。追手にかわって飢えと寒さが曹操たちを追い詰めていた。

関羽の大罪…関羽はおごる者には厳しく弱き者には優しくその上恩義を忘れず仁義に厚い任侠の男。曹操が以前関羽を捕らえながら彼の忠義心に感じて劉備のもとに帰らせたことがあった。そのときのことを曹操は関羽に話す…。

南郡攻略…赤壁の戦いで曹軍を打ち破った呉軍はその勢いに乗って漢江の地を手に入れるべく南郡攻略を開始した。呉軍の指揮官は周瑜。曹軍の敗残兵を自軍に組み入れながら怒涛の如く侵攻する呉軍は今や向かうところ敵なしであった。

三国志 第九巻 政略結婚

孔明の策により荊州九郡を横取りされた周瑜は主・孫権の妹君との縁談を口実に劉備を呉へおびき寄せ討たんと画策する。この罠を承知で婚姻を勧める孔明の思惑は?そして劉備を護るべく随行する趙雲に孔明が託した“三つの小袋”の中身とは!?

政略結婚…長坂坡(ちょうはんは)の戦いで妻を亡くした劉備に孫権の妹を嫁がせることを思いついた周瑜はただちに計略を書にしたためると魯粛に持たせて南徐(なんじょ)の孫権に送り届けた。

南徐脱出…盛大な婚礼の儀が執り行われたその夜、劉備は赤い提灯が連なる廊下を花嫁の部屋へと導かれた。そして劉備と孫夫人は床をともにして固く契り合った。周瑜は一計を案じると書にしたためて孫権のもとに送り届けた。心配した趙雲が孔明から預かった小袋を開けてみると…。

周瑜死す…水陸合わせておよそ五万の大軍が怒涛の如く荊州に攻め込んで行った。軍勢の指揮官はもちろん孔明打倒に燃えた周瑜である。

新軍師龐統(ほうとう)…孔明は四郡巡視の旅に出た。突然のこの出発…その裏には実は孔明の深い思惑があったのである。しかしそのことに気づいた者はいなかった。劉備も張飛も関羽も他の誰ひとりとして。

馬騰一族の決起…西涼の太守馬騰は身の丈八尺体格容貌ともに素晴らしく性格も温厚で人々の尊敬を集めていた。馬騰は息子の馬休、馬鉄を先鋒に立て甥の馬岱(ばたい)を後詰めとして西涼の兵五千を率いて許都へと向かった。

使者の挑発…張松(ちょうしょう)は許都に到着すると毎日のように曹操の屋敷に出向いて面会を求めた。しかし張松は三日続けて通っても曹操に会うことは出来なかった。張松は方策を考えた末に賄賂の金貨を小袋に包んで屋敷の役人に差し出した。賄賂の効果は素晴らしく張松はすぐに曹操の部屋に案内された。しかしこのことが張松は気に入らなかった。

蜀へ!…張松が荊州城の郊外までやってくると趙雲がこれを出迎えた。そこには酒宴の席が設けられていて張松は手厚い歓待を受けた。さらに進むと今度は関羽が百人あまりの兵とともに太鼓を打って張松を出迎えた。曹操の冷たい応対とは正反対の丁重な持てなしに張松は一層感激した。

三国志 第十巻 対決!張飛対馬超

劉備の蜀入りは劉璋(りゅうしょう)の家臣を二分し混乱を招く。力により蜀奪取を進言する龐統だが劉璋を討つことに劉備は躊躇する。そして張魯の蜀侵攻が始まる。一方、赤壁の戦いの屈辱を晴らさんと曹操が再び呉に進軍する!

剣の舞…劉備と劉璋が対面すると救国の援軍の到着に劉璋は上機嫌だった。しかし劉璋の部下たちは思いがけない男の姿に底知れぬ脅威を感じたのだった。

阿斗奪還…孫権の命を受けた周善は兵五百人あまりを商人に仕立て上げて船に乗せると自らも商人になりすまして荊州へ向かった。周善は疑われることもなく荊州の城内に入ると孫夫人の屋敷を探り当てて面会を申し込んだ。

劉備の決断…劉備は龐統の進言により劉璋に精兵三、四万、兵糧十万石を用立てるよう手紙を書くが、役に立たない老兵ばかり四千と米一万石という名ばかりの兵士兵糧が劉備のもとに届けられたのである。

龐統堕つ!…張松の地図は実に見事なものであった。山川の細部はもちろんのこと地元の人々にしか分からない秘密路まで精巧に描かれていた。劉備は軍勢を率いて雒城(らくじょう)に向かって出陣した。

張飛の策略…出来るだけ戦わずして勝て…孔明がこう言ったのは張飛の短気で粗雑な性格を見越してのことであった。それが思わぬ好結果を生んだのである。

雒城陥落…孔明は雒城の周辺を丹念に視察し陣屋にもどるとさっそく武将たちを集めて作戦を伝授した。そして孔明自らも張任を誘い出すために出陣した。

対決!張飛対馬超…それはまさに牙をむいた竜虎の戦いであった!両軍固唾を呑んでそのなりゆきを見守った。しかし勝負はいっこうに決まらず…やがて陽が落ち…。

三国志 第十一巻 三国成る!

馬超を懐柔することにより蜀を手に入れた劉備。かつて孔明が唱えた“天下三分の計”が現実のものとなった!しかし北には曹操の魏が、南では呉の孫権が虎視眈々と領土拡大の機会をうかがっている!

三国成る!…李恢(りかい)は蜀の賢人と呼ばれたほどの知恵者で劉璋の部下であったが劉璋の愚かさに嫌気がさして劉備のもとにやってきたのである。李恢は馬超を説き伏せるために馬超の陣営に向かう。

漢中平定…孔明の予想通り曹操は劉備の手によって蜀が平定されたことに脅威を感じ劉備の力が増大するより前に蜀を滅ぼしてしまおうと漢中に攻め込んできたのである。

魏王就任…崔琰(さいえん)が「荀彧のことを忘れたのか」と言われたのは曹操の魏王就任に反対すれば荀彧同様に死ぬしか道はなくなるのだということを意味していたのである。崔琰の発言が曹操の知るところとなり怒った曹操が部下に命じて崔琰を捕らえると獄中で殴り殺しにしてしまったのである。

張飛の策略…張飛たちの力を甘く見た張郃(ちょうこう)の軍勢は総崩れとなり、張郃はあわてて宕渠寨(とうきょさい)の砦に逃げ込むと張郃たちは酒盛りをしながら口汚く張飛たちをののしった。張飛たちも砦の下に宴席を設けて敵をののしりながら酒盛りをはじめた。

漢中の攻防…張郃の軍勢は強かった!猛将孟達(もうたつ)の軍勢が葭萌関(かぼうかん)から出てきて攻撃してきたがたちまちの内にこれを撃退。敗れた孟達は大慌てで葭萌関に逃げもどった。劉備は老将黄中と厳顔を援軍に送る。

曹操の出陣…曹操は劉備軍を討つべく四十万の大軍を率いて出陣した。南鄭(なんてい)に駐屯していた曹軍の兵士たちは劉備軍に追われてすっかり戦意を喪失していたが、魏王曹操の姿をみるやたちまち元気を回復した。

南鄭攻略…曹操は漢水に進軍すると対岸の劉備軍と川をはさんで対峙した。趙雲は孔明に命令された通り軍勢五百に笛と太鼓を持たせて禿山に陣取った。

三国志 第十二巻 関羽の死

劉備軍に敗退し曹操が漢中から撤退、強大なる蜀が劉備のものとなる。魏王・曹操に対抗し漢中王を名乗る劉備。これに対し曹操は呉の孫権と手を結び蜀攻略を策謀する。曹操のたくらみに乗じた孫権が関羽が守る荊州に攻め入る!

曹操の焦り…行軍主簿(軍中の書記)の楊修(ようしゅう)は文官の中でも特別に頭の利れる男であった。しかし日頃から出過ぎた態度が目に余り曹操はもともと反感を持っていたのである。

漢中王劉備…建安二十四年(219年)秋七月、劉備は漢中王となった。子劉禅を世継ぎに立て、法正を太傅に、諸葛亮孔明を軍師として諸軍を統括させ、関羽・張飛・趙雲・馬超・黄忠を五虎大将に、魏延を漢中の太守とし、その他の者たちもすべて功に応じて爵位を与えたのである。

魏呉同盟…諸葛瑾子瑜(しょかつきんしゆ)は諸葛孔明の兄である。孫権は常々『私と子瑜は生死を越えて変わらぬ誓いを結んでいる』と周囲の者たちにもらしていた。諸葛瑾の誠実で実直な人柄を孫権は深く信用していたのである。

忠臣龐徳(ほうとく)…関羽を倒すべく曹操は龐徳に出陣を命じるが、文官の中には異を唱えるものもいた。龐徳は元来馬超の部下でやむなく魏に降伏した男で、おまけに龐徳の兄龐柔も蜀の重鎮であり、龐徳がもし馬超の下に走ったら…。

荊州陥落…孫権から荊州攻略の命令を受けたのは陸口(りっこう)の呂蒙(りょもう)であった。しかし荊州軍が万全の備えをして守りを固めていることを知ると呂蒙は弱気になり仮病を使って辞職してしまった。呂蒙の代役となった陸遜は錦や酒などの礼物を揃えると使者を立てて関羽の元へ送った。

関羽の死…呂蒙が予想した通り麦城(ばくじょう)に立てこもった関羽軍はすぐに食糧に事欠くようになり、また負傷した兵士も多く日に日に疲弊して行った。

三国志 第十三巻 出師の表

関羽の仇をとらんと孔明の制止にも耳を貸さず自ら呉へ兵を進める劉備。そして仲達の策により呉に関羽を討たせたものの、その霊に脅かされ病に伏せる魏王・曹操は、仲達に後事を託し逝く。今、英雄たちの黄昏の時が訪れんとする…。

奸雄の死…夜毎夢枕に現れる関羽の亡霊に悩まされるようになった曹操は寝込むようになり容体は悪化するばかりであった。各地にお触れが出されて国中の名医が集められた。しかしどんなに治療をしても容体はいっこうによくならなかった。

無残な最期…劉備はあまりの悲しみから病に伏してしまった。漢中王として政事を見ることが全く出来なくなってしまったのである。そんなある日、孔明が一通の上奏文を持って病床の劉備を訪れた。

思わぬ惨敗…復讐に燃える劉備の大蜀軍は破竹の勢いで呉軍を粉砕していった。その中には白い袍(ひたたれ)と白銀の鎧に身を包み父の仇を討つべく奮戦する張苞(ちょうほう:張飛の長男)と関興(かんこう:関羽の次男)の姿もあった。

群雄の黄昏…曹丕は陸遜の知謀の前に破れ去り何の成果も得られないまま軍勢を率いて大魏へ引き揚げて行った。この時から大魏と呉の不和が決定的となったのである。

出師の表…孔明は新皇帝劉禅の前に蜀の文武百官を集めると悲願達成の時期がきたことを高らかに宣言した。これが有名な前出師の表である。国に対する忠誠と国家百年の計を記した孔明のこの出師の表を聞いて感動しない者はただのひとりもいなかった。

宿敵の復活…孔明は南安城の周囲に芝草を積み上げるとこれに火をつけた。魏軍の兵士はこれを見て大笑いするばかりだった。芝草などで城を燃やすことなど出来やしないと高をくくったのである。しかし孔明の狙いは別の所にあった。

三国志 第十四巻 決戦!五丈原

劉備亡き後、その遺志を継ぎ魏を討つべく北伐遠征軍を率いる孔明。しかし、孔明の策略により失脚した仲達が復活!魏の全権を委ねられ立ちはだかる。孔明対仲達、希代の軍師同士が国家の存亡をかけて、知謀の限りをぶつけ合う!諸葛亮孔明、最期の戦い!

大敗北…帝の許可なく自分の一存で軍勢を動かせる、閑居を余儀なくされていた仲達は前例のない破格の特権を与えられたのである。仲達は二十万の大軍を与えられると蜀の食糧補給路の要となっている街亭を奪いとるべく出陣した。

孔明の逆襲…孔明は帝の許しを得ると兵を練磨し兵糧を蓄え水戦用の船を造り上げて着々と出撃の準備を整えていった。そんなときだった。思いがけない知らせが孔明の元に飛び込んできた。

智謀合戦…蜀漢の建興七年(229年)蜀対魏!雌雄を決する宿命の戦いの火ぶたが切って落とされた!混元一気の陣対八卦の陣!

仲達の勝利…孔明は部下に命令して百余隻の筏を造らせた。それは渭水(いすい)の上流から筏に乗って北岸へ攻め込むように見せかけるための囮であった。仲達はすぐに蜀軍迎撃作戦を立てて部下たちに命じると…。

葫蘆谷(ころこく)の秘策…仲達は張虎、楽綝(がくりん)を呼んでそれぞれ五千騎を与えると祁山(きざん)の蜀軍本陣へ攻め込ませた。仲達の思惑通り葫蘆谷の守りは手薄になっていた。

決戦!五丈原…仲達は守りを固めて蜀軍の挑発には一切乗ろうとはしなかった。孔明は長期戦に備えて祁山から五丈原に陣を移して仲達の動きを探った。

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